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蔵出し!文书馆 第4回

蔵出し!文书馆
収蔵する贵重な学内资料から
140年に及ぶ东大の歴史の一部をご绍介
 
 

第4回 新規公開 田口文太関係資料

   今回は、10月に新规公开された田口文太関係资料についてご绍介いたします。
 田口文太は明治時代の一高?東京帝国大学の卒业生です。この度、孫の嘉治憲夫氏から田口資料の寄贈を受けました。なお、嘉治真三元教授(東京大学社会科学研究所)は憲夫氏の父です。
 田口文太(1878.2.24~1972.9.3)は田口卯吉の长子として生まれ、一高から东京帝国大学に入学、医科大学薬学科に在籍中の1905(明治38)年、陆军卫生部の医科大学委託学生となりました。
 卒业后、陆军に奉职した文太は、陆军二等薬剤官として东京第一卫戍病院に勤务していた1909(明治42)年12月14日、陆军省より东京帝国大学の大学院への入学を命じられます。学ぶ内容は写真に掲げた「训令」にみられるように陆军省医务局长医学博士森林太郎から指示されています。作家?森鴎外として知られる森林太郎は、この时、陆军军医総监(中将相当)でした。「训令」には、大学院に在学中は卫生化学一般を研究し、在学期间は満2年とする旨が记载されています。
 12月25日には东京帝国大学医科大学より、大学院の入学许可と、学术攻究は丹波敬叁教授の指导を受けるよう记された文书が大学院学生田口文太宛てに出されました。森林太郎に提出するための学业报告の草稿からは、文太が理科大学や工科大学でも学び、その成果を日本薬学会で発表していることがわかります。
 その后、陆军卫生材料厂や陆军军医学校などに勤务し、第一次世界大戦やシベリア出兵、満州事変、日中戦争に関する业务に従事し、1935(昭和10)年には薬剤総监?薬剤中将となりました。
 文太は、一高、东京帝大の学生时代は水泳部などで活跃し、陆军に勤务してからも长く水泳部を指导しました。
 田口文太资料は、陆军卫生部を嚆矢とする委託学生制度による学生の足跡を知る上で重要な资料です。
(文书馆教務補佐員?小川智瑞恵 )
  今回の蔵出し资料
訓令 (東京帝国大学大学院入学中は衛生化学一般を研究し在学期間は満2年とする旨)(F0217/S2/SS2/141)
 






 
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