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蔵出し!文书馆 第8回

蔵出し!文书馆
収蔵する贵重な学内资料から
140年に及ぶ东大の歴史の一部をご绍介
 
 

第8回 亡き妻を偲んで

   日本には寄付文化が根付いていないということがよく言われますが、いつの頃からか、母校や勤務先などから折に触れて寄付の誘いがかかるようになりました。今では、东京大学基金など認定団体への寄付は税法上の優遇措置の対象となる制度もあり、日本の寄付文化は最近ようやく定着しつつあるという印象を受けます。
 ところが、実はさまざまな形で「东京大学の教职员が东京大学に寄付をする」ということは、かなり早くから行われていたのです。退职后や遗赠のみならず、研究费や奨学金のためとして、现职教官が东京帝国大学に寄付しているというケースは少なくありません。こうした中から、今回はちょっと兴味深い文书を绍介しましょう。
 第6代?第9代と二度にわたり総长を务めた山川健次郎は、大正5年に妻の铆りゅうを胆石で亡くします。铆は、しっかり者の山川の姉?二叶が「この人なら」と见定めてめあわせた女性で、その期待どおり、山川を见事に支えました。
 ところが、铆は大正4年暮から胆石を患い、东京帝国大学附属病院叁浦内科(教授?叁浦谨之助)に入院します。山川はこのとき2度目の総长の职にあり多忙を极めていましたが、时间を见つけては日に2、3度も妻を见舞っていたといいます。铆はしかし、治疗の甲斐なく翌年3月に亡くなってしまいました。
 それからほどなく5月9日から、大正7年8月、大正8年4月と、山川は3度にわたって三浦内科に寄付をしています。写真はこの2度目の「寄附願」です(S0015/07『奨学寄附自大正七至大正十三年 2』)。 個人としての山川健次郎が東京帝国大学総長の山川健次郎宛に寄付を願い出ているわけです。
 寄付の金额はささやかなものです。ですが、一度きりでなく、そして4年かけて寄付しているということから、山川が静かに亡き妻を偲び続けた様子が想像され、胸が热くなります。(参考:故男爵山川先生记念会『男爵山川先生伝』)
(文书馆准教授?森本祥子)
  今回の蔵出し资料
「奨学寄附自大正七至大正十三年 2」(S0015/07)
 
 






 
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