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蔵出し!文书馆 第17回

蔵出し!文书馆
収蔵する贵重な学内资料から
140年に及ぶ东大の歴史の一部をご绍介
 

第17回 能狂言で外国人教员を饗応

 現在東京タワーが建っている芝公園に、その昔、能楽堂がありました。「紅葉館舞台」と呼ばれた芝公園能楽堂です。 芝公園能楽堂が開場したのは明治14(1881)年4月。その約1か月後の5月28日午後2時から、東京大学三学部(法理文)の主催で、外国人教員をもてなすための能狂言の催しが開かれました。当館所蔵の『文部省往復』(S0001/Mo039,040,043,046)に、関連する文書が綴じられています。 そこには、列席する男性は洋服か袴羽織を着用することを明記した文書や、備品の椅子70脚の借用願などがあり、大学側の様々な配慮が読み取れます。また、この時代のもう一つの学部であった医学部の教授陣にも声がかけられ、三宅秀、桐原真節、樫邨(村)清徳、田口和美、橋本綱常、足立寛、永松東海と、その家族が同道を希望したことがわかります。
 さて、この日、舞台をつとめたのは谁か。『文部省往復』には出演者や演目の情报はありませんが、日付、「红叶馆」「外国人」というキーワードを手がかりに调べてみると、ある日记にたどりつきます。日记の主は初世梅若実。名人とうたわれ、明治の能楽界を牵引した人物です。彼はこの日のことを「晴。芝红叶馆舞台催。外国人驰走ノ由。午后正二时半始リ。上下。」と书きつけていて、『文部省往復』の记述とほぼ一致します。「上下」とは出演者が着用する裃のことで、より正式な舞台であったことが窥えます。
 演目は、《桥弁庆》《红叶狩》《乱》の能叁番と、《石神》《花折》の狂言二番。とくに《桥弁庆》の牛若と弁庆の立廻りの场面や、《红叶狩》の美女から鬼に変貌する趣向は、観客を惹きつけたに违いありません。出演者は梅若実のほか、能では宝生九郎、狂言では野村与作という錚々たる颜ぶれでした。
 『文部省往復』を起点として、同時代に書かれた別の記録を手がかりに詳細を手繰り寄せるのも、資料研究の醍醐味でしょう。 (参考:梅若実日記刊行会編『梅若実日記』第三巻)

(学术支援职员?星野厚子)

 


今回の蔵出し资料 「文部省往復 附直轄会院校等 明治十四年分 四冊之内丁号」(S0001/Mo040)

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