蔵出し!文书馆 第29回


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蔵出し!文书馆 収蔵する贵重な学内资料から 140年に及ぶ东大の歴史の一部をご绍介 |
第29回 狐狸と近代学知
1884年2月から3月のこと、麻布区広尾に住む蒔田俊亲(通称:直太郎)の居宅に、石や火のついた绵切れが、连日のごとく放り込まれる事件が発生した。静冈県士族の蒔田は、第一回内国勧业博覧会(1877年)で竜纹褒赏を受けた菊池容斎の门人で、絵师として活动するかたわら、近隣の子どもたちに読み书きを教えていた。多い日には石34?火绵13が投げ込まれたが、谁かに恨みでも买ったか、教え子たちに嫌われてでもいたか、事情は明らかではない。巡査の报告书によれば、悪い风闻や色恋沙汰の遗恨もないようで、麻布警察は「狐狸の処业」であろうとした。
東京大学は「学術上参考のため」に警察署から石と綿切れの標本を取り寄せている。これは、東京大学文书馆所蔵の『諸向往復 明治十七年分二冊ノ内甲号』(S0004/48)に収録されている。麻布警察からの書簡の余白には、山川健次郎や北尾次郎など東京大学の理学者たちに回すように指示がある。残念ながらこれに続く資料は残っておらず、標本がいかに評価されたかは明らかでない。後年の山川は「千里眼」をめぐる疑似科学論争の中心人物になるが、この事件の調査はその前史と考えられる。
「狐狸の処业」という説明を警察が本当に信じたのか、当事者たちを刺激しないための「方便」だったのか、いまや知る术はない。しかし、「狐狸」の言説が住民の人间関係や生活の意味を説明しうる、ひとつの信念体系の表现であったことは确かだろう。こうした民众の信念体系に対して、学者たちは学术的知というもうひとつの信念体系をぶつけ、「近代」の有効性を証明しようとした。学者たちがあえて「狐狸」の言説に対抗する必要を感じたほどに、民众の信念体系は强力だったのだ。大学は、「近代」なるものと民众の信念体系の接触领域でもあったのである。あるいは、事実麻布の山には狐狸の类が栖んでいて、警察官や学者たちもその力で惑わされていたのであろうか。
→『諸向往復 明治十七年分二冊ノ内甲号』(S0004/48)