蔵出し!文书馆 第45回


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蔵出し!文书馆 収蔵する贵重な学内资料から 140年に及ぶ东大の歴史の一部をご绍介 |
第45回 友楽馆万歳!
明治の東京には、中村座、市村座、森田座(守田座)をはじめとする江戸時代から続く劇場や、寄席が数多くありました。新たに演芸改良の波を受け、明治22(1889)年10月5日、日本橋蛎殻町(水天宮のあたり)に「東京改良演芸会 友楽館」が開館します。設計者は、東京帝国大学工科大学助教授の中村達太郎。建物外部は煉瓦石材、内部は節のない杉を用い、音響や空気流通の具合も計算しつくした洋風建築だったようです。
开馆初日、前东京府知事で、当时帝国大学初代総长の渡辺洪基は祝辞を述べました。その原稿が当馆に寄赠されています(渡辺洪基関係资料の内贵0002/157「(友楽馆开馆式祝词)」)。
渡辺は「余モ亦其席ニ临ムヲ得タリ其喜何ソ加ヘン」と开馆式临席を喜び、「此场ニ登リテ技ヲ演スル者ハ尽ク高等ノ名人ナリ」と称えます。「陋劣」と认识されていたそれまでの音楽や演芸を改良し、かつ、特定の出演者ではなく「流派ヲ撰ハス」と明言し、「友楽馆万歳谨テ祝ス」と缔め括ったのでした。祝辞に続く舞台は翌6日の二日间に亘って行われ、清元节、落语、长唄、义太夫节、常磐津节、琴古流尺八、山田流箏曲、一中节などが、当时の錚々たる人物(男性に限らず女性も)によって演じられました(东京朝日新闻)。
别资料「(演芸论草稿)」(贵0002/145)の中で渡辺は「今ヤ制度一変シ士农工商ノ别ヲ廃シ种族ノ异ヲ问ハス或ハ剧场或ハ寄席皆ナ之ニ入ルヲ禁スル者ナク&丑别濒濒颈辫;」と、新しい时代の芸能享受のあり方を论じています。この草稿が书かれた年代は不明ですが、「帝国大学用笺」に记されていることや、语句が祝辞と类似していることなどから、友楽馆开馆とあまり远くない时期にまとめられたものとも思われ、运営理念も近代化された新剧场の开馆は、渡辺にとって大きな関心事だったことが窥えます。
(学术専门职员?星野厚子)