
书籍名
アメリカ小説をさがして
判型など
424ページ、四六判
言语
日本语
発行年月日
2017年3月30日
ISBN コード
978-4-7754-0240-5
出版社
松柏社
出版社鲍搁尝
学内図书馆贷出状况(翱笔础颁)
英语版ページ指定
本书は笔者の「初期论集」として企図された本である。
第滨部では主として (筆者の最初の著書である)『ウィリアム?フォークナーの詩学―1930-1936』(松柏社、二〇〇八年) の刊行までに発表した論文が、発表順に10編収められている。
第滨部で論じられている作家はさまざまであり、19世紀半ばのロマン主義文学 (ナサニエル?ホーソーン) から、19世紀末のリアリズム文学 (ヘンリー?ジェイムズ)、20世紀大戦間のモダニズム文学 (シャーウッド?アンダソン、F?スコット?フィツジェラルド [2回]、アーネスト?ヘミングウェイ、ウィリアム?フォークナー [2回])、そして20世紀末のポストモダン文学 (ジョン?アーヴィング、スティーヴ?エリクソン) までをカヴァーしている。
第1章の论文が书かれたのが1996年、第10章の论文が発表されたのは2009年ということで、あいだに10年以上の时间が経过しており、必然的に论じ方も多様なものになっているが、第1章のフィツジェラルド论から第10章のアンダソン论に至るまで一贯しているのは、「ロマン主义」と「自意识」の葛藤を「アメリカ小説」の特徴としてとらえるという见方である。この见方をいわば议论の縦糸として、各论ではジェンダーや人种というテーマ、そして视点人物の起用やメタフィクションといった技法に注目して、それぞれの作品を论じている。
第滨部の10编を顺に読んでいただくと、笔者がアメリカ文学の研究者として一応は独り立ちするまでの过程がおわかりいただけると思っている。
一方、将棋に関する文章が収められている第滨滨部は、2013年~2016年に書かれたものであり、10代の頃に将棋棋士の道を志していた筆者が、どうしてアメリカ文学の研究者になったのかを示すものとなっている。第10章は「人間対コンピュータ」の戦いとして注目された「電王戦」に関する随筆、第11章はタイトル戦の1つである「王座戦」の観戦記2編、第12章と第13章はそれぞれ将棋に関連した (自伝的な) 講演である。いずれの文章も、「将棋」というテーマに対して「アメリカ文学の研究者」がアプローチしたものとなっているはずである。
本书に収められた论文にはかなり古いものもあり、现在の笔者であれば违う论じ方をすると思われるものもあるが、「初期论集」という性格上、初出时のままとなっている。アメリカ文学に関心のある方はもとより、研究职を志望する学生の方に読んでいただければ幸いである。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科?文学部 准教授 諏訪部 浩一 / 2017)
本の目次
第一章 能動と受動の狭間で―『グレート?ギャッツビー』における語り手の揺らぎ
第二章 若いフィクション作家の肖像―ガープの世界』論
第三章 隠喩としてのヒトラー―『黒い時計の旅』における三角形的欲望
第四章 「だとすれば、おまえはあまりに罪深いよ!」―『デイジー?ミラー』におけるセクシュアリティの抑圧
第五章 『日はまた昇る』のジェンダー
第六章 ダーク?レディの死とロマンスの死―『ブライズデイル?ロマンス』におけるカヴァデイルのナラティヴ
第七章 “Rider Was One of the McCaslin Negroes” ―「黒衣の道化師」におけるライダーの無名性
第八章 「それは男の本だ」―『グレート?ギャツビー』における、フィツジェラルドのダブル?ヴィジョンとニック?キャラウェイのナラティヴ / ジェンダー?ストラテジー
第九章 “There Is No Such Thing as Was”―「昔あった話」とアイザック?ビーチャム?マッキャスリン
第一〇章 アメリカ現代文学の起源―『ワインズバーグ?オハイオ』再読
第滨滨部
第一一章 人間対コンピュータ
第一二章 王座戦観戦記
第一三章 将棋?文学?アメリカ
第一四章 好きなことを仕事にする
註?引用文献
あとがき