过去と现在をつなぐもの 史料を编纂する研究所

過去の書き手、読み手、出来事と現在の私たちとをつなぐもの。それが、史料です。史料には個人の日記や公的な記録、系図や家譜、地図や肖像画まで多岐にわたるものがあります。これらは「過去に生きた人たちが確かにそこに存在していたことを示してくれる手がかりです」と特殊史料部门の松井洋子教授。東京大学史料编纂所ではこのような手がかりを国内外から収集して、研究者が広く利用できる形で公開しています。
史料の蒐集
史料には原本と複本があります。原本はオリジナルの史料で、史料编纂所にはその長い歴史の中で譲り受けたものや購入したものが所蔵されています。その中には国宝に指定され、薩摩藩主の島津家に約700年もの間伝わってきた『島津家文書』もあります。複本は原本の複製で、原本を保存するため、より多くの研究者が史料を利用できるようにするために作成されます。史料编纂所では、原本は伝来した場所から動かさないという「現地保存」の考え方に基づいて、複本作成による蒐集(しゅうしゅう)を積極的に行ってきました。百年以上もの間、全国各地の寺社や旧家などを訪ねて重要なオリジナルの史料を手作業で写しています。文字を写し取る場合は原本と同じような筆、墨、和紙を用いて文字の止めや撥ね、虫食いの位置や大きさまでも完全に再現します。絵画史料も同じように、当時の材料や技法を参考に美感までもが原本とそっくりな複製を作ります。その他にも、技術の進歩に合わせてマイクロフィルムやデジタル画像による複製も作っています。
蒐集した史料は数十テラ
このようにして作られた複本や入手した原本は年月を超えて膨大な量になり、そのままでは研究者は目的の史料を探し出すのは大変です。また、史料の文字は時代によってその崩し方も変わり、その時代の専門家でなければ解読できません。そのため、史料编纂所では史料の文字を精密に解読し、活字に起こし、史料の性格を吟味(史料批判)して事件や年代別に整理したものを目録または史料集として刊行しています。この一連の作業を「編纂」と呼び、編纂によって史料の利便性が高まります。「これまでに刊行してきた基幹的な史料集は1100冊を超えています。毎年十数冊のペースで刊行すると、今出している史料集を完成させるだけでも多くの年月が必要です」と語るのは近世史料部门の保谷徹教授です。
一方で、史料集のような纸による编纂には限界があります。比较的新しい幕末维新期あたりになると、半月分の史料で一册が埋まってしまいます。限られた纸面ではすべてを活字に起こすことは困难です。この问题は、纸とは异なり物理的な制约の少ないデジタル画像や各种のデータベースを公开して一部解决しています。「所内で所蔵している史料のデジタル化はまだすべては済んでいませんが、そのデータ量は既に数十テラ以上もあります」と保谷教授は言います。また、デジタル化によって史料を复数の拠点で保管することも容易になりました。「现在は所内のバックアップのほかに、京都大学の研究センターに同じデータをまるまる一セット预かってもらい、もしもの场合に备える体制です」。
3年に1度歴史を里付ける原本を公开
史料编纂所では史料の複本やデジタル画像、史料集を提供するほか、3年に一度、原本を公開する展覧会を開催しています。2013年はちょうどその年にあたり、「東アジアと日本?世界と日本」と題して、11月8日(金)と9日(土)に史料编纂所で開催されます。第1回目は明治時代の1902年に開催され、今年で36回目を迎えます。展覧会は普段は厳重に保管されている原本が見られる特別な機会です。実行委員長でもある保谷教授は「歴史小説や教科書で書かれている歴史が出てくる理屈の大本。その大本の史料に触れてもらいたい。そして、研究者が日々相手にしている史料を知っていただきたい」と話します。
展示される史料40点のうち、30点が日本の対外関係や交渉に関连するもので、平安时代から幕末まで600年以上にわたります。これらの中には江戸时代の日本人と西洋人との接触のありかたを反映した「和兰甲比丹ブロムホフ家族図」(図2)があります。一枚の纸の上半分に文字が、下半分に出岛のオランダ商馆长ヤン?コック=ブロムホフの妻子と乳母、召使いが色鲜やかに描かれています。「1817年の夏にブロムホフが出岛のオランダ商馆长として赴任した际、妻子とともに日本にやってきました。100年以上にわたって例がなかった出来事で、日本侧は対応に迷います」と松井教授は説明します。结果的に妻子の滞在は幕府によって认められませんでしたが、数ヶ月の滞在中、ブロムホフの家族は非常に评判になり、いくつもの家族図が描かれました。「この絵は后にシーボルトの絵师として名を博す川原庆贺が描いた原本と考えられています」。ブロムホフの家族の姿は、川原庆贺などの絵画を介して、国内に异国女性のイメージを伝えていきます。
展示品の中には日本と隣国が接触した记録もあります。1597年3月21日の日付が入った「朝鲜国松云大师惟政书状」(図3)は、最前线での交渉の様子を伝える朝鲜からの文书です。「松云という朝鲜のお坊さんが日本の武将加藤清正に渡した箇条书きのメモです。当时、日本军は朝鲜半岛に出兵しており、朝鲜朝廷としては豊臣秀吉の考えや日本国内の事情を知りたいという思惑がありました。清正もまた、松云を通して朝鲜の事情を探ろうとしていました」と近世史料部门の鹤田启教授は解説します。「このメモ书きは急いで书かれたようで、文章を少し直している箇所や顺番を入れ替える印が所々あります。また、外交上の接触なので『はったり』や『駆け引き』のようなものが関连史料と合わせるとわかります」。そこに史料を解読するおもしろさがあります。
この时代には朝鲜とだけではなく明国とのやり取りもありました。1550年ごろ、海贼でもあり密贸易も行っていた倭寇(わこう)と呼ばれる集団が明国経済の心臓部である浙江(せっこう)省沿海部を频繁に袭っていました。そこで蒋洲(しょうしゅう)という浙江省の役人が、日本へ倭寇の镇圧と引き换えに明国との自由贸易を提案しに行きます。「蒋洲は豊后(今の大分県)に滞在している间、戦国大名宛に『民が外で悪さをしないよう管理せよ』と手纸を出します。その一通がこの対马岛宛の蒋洲咨文(しょうしゅうしぶん、図4)」と中世史料部门の须田牧子助教は説明します。蒋洲の提案に応えて、大友氏は明国に使节団を送ることにします。「しかし大友氏の使节団は明国から正式な使节団として认めてもらえず、最终的には倭寇だとして明军に攻撃され、逃亡しました」。
过去からの手がかりをたどって
このような多様な史料を所蔵する史料编纂所の淵源をたどると、東京大学の歴史よりも一世紀ほど古く、1793年に塙保己一(はなわほきいち)が徳川幕府の支援を受けて開設した和学講談所までさかのぼります。塙は1801年に幕府に史料の編纂事業を提案し、この事業の骨格は結果として1869年には明治政府に、1888年には帝国大学(のちの東京大学)に引き継がれます。しかし当初明治政府が意図した事業の目的は、日本の「正しい歴史」を作成する正史編纂でした。実証主義的な歴史研究は神道家たちの批判を浴び、事業は一旦中断されます。この一件は史料编纂所のその後の方向性を決める大きな転機となりました。「歴史の事実を国の正史として一つに決めてしまうのではなく、客観的な史料を網羅的に収集して、それに基づいて歴史学者が議論できる環境を提供すること、それが研究所のひとつの使命となった」と保谷教授は強調します。史料编纂所が現在のように文学部から独立した東京大学の附置の研究所となるのは、1951年のことです。
史料编纂所で働く研究者は史料を網羅的に収集するほか、集めた史料を利用して前近代(古代から明治維新期まで)の日本史の研究を行います。それぞれ史料に対する思いはさまざまです。「史料は過去への手がかりであり、時代によって史料に対する距離感が変わってくる」と保谷教授。江戸時代はもう私たちが実感できるような時代ではなくなっていますが、近代や現代はまだなんとなくつながりを感じられる時代です。古い記録の中に今の外交問題を理解する手がかりもあります。「こちらの論理や考え方とあちらの論理や考え方は似ている、という前提で外交問題を解決しようとするとうまくいかない。もともとお互いは違うことを認識する必要があると史料は教えてくれます」と鶴田教授は話します。そして、須田助教は史料を現在まで何百年もの間守ってきた人に思いを馳せます。「史料は過去を知るための本当に大切な手がかりであり、史料には保管されてきた歴史があります。史料を目の前にすると今ここに存在することの意味や重さを強く感じます」。
史料编纂所は、時を超え、人を超え、時には国境を越えて伝わってきた過去からの手がかりをこれからも守り、伝えていきます。
取材协力
須田 牧子 助教
中世史料部门
研究テーマ:中世対外関係史の研究
鶴田 啓 教授
近世史料部门
研究テーマ:近世対外関係史の研究
取材协力
松井 洋子 教授
特殊史料部门
研究テーマ:近世対外関係史の研究
保谷 徹 教授
近世史料部门維新史料室?画像史料解析センター(兼)
研究テーマ:幕末维新期の外交?军事と社会に関する研究