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国の登録有形文化财 登録

国の登録有形文化财 登録

【本郷キャンパス】

大讲堂(安田讲堂)

平成8年12月20日登録第1号  【1925(大正14)年竣工】

构内に便殿(びんでん)すらないことに恐缩した安田善次郎の寄附によって、1925(大正14)年に竣工した。设计した内田祥叁はケンブリッジ大学の门塔に着想を得たようだが、力感涨るデザインは独特である。近代的な総合大学に生まれ変わろうとしていた当时の东大にとって、安田讲堂こそ大学の新しいイコンとなるべきものであった。理学部1号馆、病院南研究栋など同様な暗赤色タイル贴りの建物は震灾前后の大正时代の刻印とも言える。纷争后の修復も安田财阀の寄附による。

(东京大学创立130周年记念事业 知のプロムナード ナビゲーション?ブック)より

大讲堂(安田讲堂)

 

本郷正门及び门卫所

平成10年10月9日登録

正门1912(明治45)年は冠木(かぶき)门という伝统的な门形式をもつ。最上部の冠木には吉兆を表わす瑞云(ずいうん)の间から登る旭日が描かれ、扉には波立つ海を象った青海波(せいがいは)と縦格子、唐草模様などがあわせられる。一方门柱では鉄骨の柱を厚切りの花岗岩で张り上げ、扉も种类の异なる鉄材を组み合わせたもの。和の趣味、洋の技术を折衷する和魂洋才のデザインであった。设计は建筑学科の伊东忠太。オリジナルの大扉と冠木は、1988(昭和63)年にアルミ合金製レプリカに入れ替えられ、今は驹场で眠っている。

(东京大学创立130周年记念事业 知のプロムナード ナビゲーション?ブック)より

本郷正门及び门卫所

法文学部1号馆

平成10年10月9日登録

旧法文科大学や旧図書館の建物に用いられていた尖頭アーチ、その屋根上のクロケットを入口のポーチ部分に用いることによって、過去のキャンパスからの意匠上の継承性が認められる。震災復興計画に基づく建物。西側部分(現在の文学部教室)は、昭和4年2月竣工。全体は昭和10年2月竣工。法文学部1号馆アーケード(尖頭アーチ)三廊形式の教会の内部構成を思わせるゴシック様式は、コンドルに由来する本郷キャンパスの伝統的建築モチーフであり、昭和62年竣工の文学部3号館にも継承されている。正門から大講堂に向う軸線と直交するもうひとつのキャンパス内の軸線を構成する。

(东京大学総合研究资料馆 东京大学本郷キャンパスの百年)より

法文学部1号馆

法文学部2号馆

平成10年10月9日登録

法文1、2号馆の屋上増筑部分
震灾復兴计画によって建设された建物のいくつかは、戦后手狭となり、屋上に増筑工事が実施された。法文1号馆、同2号馆(工学部6号馆も)の屋阶(ペントハウス)は、コンテンコール钢という材料を用いた四分の一円形ヴォールトを主要なデザイン要素としている。パリのアパルトマンの最上阶に见られる屋阶を参考にしたと思われる意匠である。外隅の部分も既存の建物のデザインを考虑している。キャンパス全体のデザインの统一を考えた一连の増筑である。设计は香山寿夫。昭和51年第1期竣工、同56年完成。

(东京大学総合研究资料馆 东京大学本郷キャンパスの百年)より

法文学部2号馆

法学部3号馆

平成10年10月9日登録

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法学部3号馆

工学部1号馆

平成10年10月9日登録

この建物の敷地は本郷における工学部発祥の地と言える。1888年(明治21)年、ここに学部最初の校舎、旧工科大学本馆が建った。建物には时计台のある大きな中庭があり、一种の広场のように使われていた。设计は东京駅や日本银行な设计で有名な辰野金吾教授。震灾后完成した现在の1号馆は、1996(平成8)年、建筑学科の香山寿夫教授によって増改修が行われ、光庭が屋内化され「広场」が復活した。学生たちの生活の中心であり、卒业式などを行うハレの场にもなっている。

(东京大学创立130周年记念事业 知のプロムナード ナビゲーション?ブック)より

工学部1号馆

工学部列品馆

平成10年10月9日登録

戦前に建てられた校舎のほとんどは「ウチダゴシック」と呼ばれるスタイルである。建筑学科教授、内田祥叁が「震灾復兴の様式」として案出した。列品馆1925(大正14)年はその最初の建物で、ロの字型のプランに连続アーチのポーチ、先端に装饰が付いた柱型、縦长の窓などが特徴である。外観は四隅が入隅(いりずみ)とされ、立体感に富む。现在は事务栋だが、学术标本を展示する(列品する)博物馆となるはずであった。工学部2号馆建设で余った工费で作られた。

(东京大学创立130周年记念事业 知のプロムナード ナビゲーション?ブック)より

工学部列品馆

野球场観覧席?ダッグアウト及びフェンス

平成22年9月10日登録 【 1937年(竣工式 昭和12年10月26日)】

东京大学弥生キャンパス内に所在する。内部に记者席、更衣室等を配する阶段状の観覧席に、片持ち支持のアーチ形屋根を架ける。観覧席の左右に配されたダッグアウト、グラウンドを囲むフェンスを含め、全体を搁颁でつくる。戦前に遡る数少ない现役の野球场施设。

野球场観覧席?ダッグアウト及びフェンス

【驹场1キャンパス】

教养学部旧第一高等学校本馆(时计台)

平成12年9月26日登録

时计台のある一号馆(旧一高本馆。1931(昭和6)年8月着工、1933(昭和8)年7月竣工)は、関东大震灾后、东京市と东京帝国大学の再建の责任を负った内田祥叁が、东大と第一高等学校(一高)が一体感を持ちうるよう工夫して设计したものである。一号馆周辺の树木には、一高の象徴である西洋柏とオリーヴもある。第二次大戦中には、防空干事となった一高生徒は、时计台から対空监视を行った。

(东京大学创立130周年记念事业 知のプロムナード ナビゲーション?ブック)より

教养学部旧第一高等学校本馆(时计台)

【驹场2キャンパス】

先端科学技术研究センター十叁号馆(旧东京帝国大学航空研究所本馆)

平成12年9月26日登録

东大は、本郷の安田讲堂、驹场の旧一高本馆、旧航空研本馆と叁つの时计台を持つ。この叁大时计台の设计者は建筑家の内田祥叁である。内田は建筑学科の教授のかたわら、営缮课长として震灾復兴期の本学建设をリードし、その一つとしてこの时计台を手がけた。1929(昭和4)年に完成。上方がややつぼまる独特の型には、当时流行っていた&濒诲辩耻辞;表现派&谤诲辩耻辞;の影响が感じられる。一阶の入口にはアンバランスなまでに太い石の円柱が使われているが、これも表现派の影响。表现派は第一次大戦后のドイツに源があり、大正末の日本に伝わり、昭和初期まで続いている。

(东京大学创立130周年记念事业 知のプロムナード ナビゲーション?ブック)より

先端科学技术研究センター十叁号馆(旧东京帝国大学航空研究所本馆)
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