ひょうたん岛通信「大槌町町方(まちかた)の空気」


ひょうたん岛通信 第7回
岩手県大槌町の大気海洋研究所附属国际沿岸海洋研究センターのすぐ目の前に、蓬莱(ほうらい)岛という小さな岛があります。井上ひさしの人形剧「ひょっこりひょうたん岛」のモデルともされるこの岛は、「ひょうたん岛」の爱称で大槌町の人々に亲しまれてきました。ひょうたん岛から毎月、沿岸センターと大槌町の復兴の様子をお届けします。
「ひょうたん岛通信 第7回」は、东京大学学内広报NO.1427 (2012.7.25)に掲載されたものです。
大槌町町方 の空気
道田 豊(大気海洋研究所附属国際連携研究センター 教授、国際沿岸海洋研究センター兼務)
あの忌まわしい震灾の2日后、2011年3月13日の朝刊に掲载された1枚の写真を见て声を失いました。この日、柏キャンパスの大気海洋研究所に设置された灾害対策本部に詰めていた私は、他のメンバーとともに、思うようにならない情报収集作业にじりじりとした気持ちで当たっていました。
朝日新聞に載ったその写真は、3月12日に大槌町中心部を空撮したもので、町は津波の後に発生した山火事のものと思われる煙に覆われていました。煙越しに見る市街地は、鉄筋の建物がぽつぽつと残っているだけで、すぐには位置関係を同定できません。
方角もよくわからない写真を丹念に见ているうちに、一つの特徴ある建物に気づきました。大槌町立図书馆です。道路に面した2辺が鋭角をなす変わった形をした図书馆は、2010年3月まで笔者が住んでいたアパートから歩いて3分ほどの距离です。となると……ありました。住んでいたアパートを含め大小3栋の3阶建て建造物があった一角が判别でき、3栋とも外形はとどめていることがわかりました。しかし、私のアパートは鉄骨と屋根だけを残して、1、2阶だけでなく私の部屋があった3阶部分の壁も失われているようでした。もしあそこに私が居たら、と、津波で一瞬にして日常が夺われてしまったことが実感され、写真を持つ手が震えました。
住宅地というのは、都会では昼间はひっそりしていたりしますが、私がお世话になっていた大槌の町方はそれなりに人の往来もあり、路地でお年寄りが话しこんでいたり、行きかう人が挨拶する声が闻こえたり、あるいは何やら作业场の音が闻こえるなど、思いのほか「动き」がありました。そして、かすかに鱼の香りが含まれる海からの风、路地の少し淀んだような、でも决して不快ではない空気。学生时代から何度も访れ、縁あってこの地に暮らすことになった私は、そうした日常を2007年の秋から2年半にわたって楽しんでいました。
【写真】震灾前(2007年10月)の大槌町町方(须贺町付近)の様子。中央の白い3阶建てが、笔者が住んでいたアパートです。小さくて分かりにくいですが、アパート前の道路にはベビーカーを押すお母さんとその知人と思われる人が谈笑しながら歩いています。
かつて住んでいた场所は「须贺(すか)町」といいます。须贺というのは砂州、砂浜といった意味らしく、低い土地です。私の居たアパートは、闯搁大槌駅から徒歩5分、かつて水产物の保管に使われていた大きな冷冻库や冷蔵库を取り壊して2007年に新筑されたものでした。敷地内には仓库のような建物が残っていて、大家さんの関係の方が业务用车両の驻车场および作业场として使っておられました。入居直后にこの方にお会いした际、「ここは津波の来る土地だから。注意报や警报が出たら、何も持たないで暖かい格好だけしてすぐに逃げなきゃだめだ。ここからだと『江岸寺』だ。行き方わかるけ?」と、500メートルほど先の高台にあるお寺までの避难経路を教えてくれました。今回の津波はその江岸寺まで押し寄せるほどの寻常でない大きさでした。
【写真】2011年3月23日、津波の12日后に撮影した大槌町须贺町の一角。海侧から町を北向きに见ています。手前の鉄骨だけになった建物が、かつて住んでいたアパート。単身赴任で、3阶手前侧の部屋に住んでいました。アパートの脇にはまだ海水が残っています。
津波から约10日过ぎた3月22日を皮切りに、その后の復旧関连活动や沿岸域の海流调査などのため私は何度も现地に入っており、そのたびに、时间のある时はアパートのあった场所に行ってみます。まだ海水が引いていなかった2011年3月は街は混乱状态でした。その后徐々にがれきの撤去などが进み、2011年末まで残っていたアパートの鉄骨も年明けに行ってみると撤去されていました。片付けが进むと、まさに何もない状态になり、むしろ寂寥感が増した気がします。空気も人を包み込むものではなくなり、ほこり混じりで吹きぬけて行きます。
国际沿岸海洋研究センターは大槌町、とくに立地する赤浜地区の方々に支えられて约40年を过ごしてきました。现在、赤浜での再建を目指して様々な作业が进められているところです。笔者は、东京大学広报誌『淡青』に沿岸センターの绍介记事を书いたことがあります(『淡青』第21号、2008)。そこにも书いたように、震灾前は、毎年夏の一般公开、地区のお祭りなどを通じて大槌町の皆様と触れ合う机会がありました。今回の津波で、沿岸センター教职员や学生の避难にあたり赤浜地区を含む町の方々に并みならぬご支援をいただきましたし、东京大学と大槌町は復兴に向けて连携协力协定を缔结したところです。津波を机に関係が强化されており、これまで以上に地区と一体となって町づくりに贡献していく必要があると痛感しています。沿岸センターの復兴にあたって、赤浜地区の一员として地区の復兴と歩调を合わせていく必要があります。
住宅があり、人々が居て、その日常あってこその大槌の「空気」です。街の中心の场所は変わっても、町方のあの「空気」は必ず戻って来る、そう信じ、その日が远くないことを愿って、沿岸センターの復旧を目指したいと思います。
「ひょうたん岛通信」第7回
制作: 広报室
掲载: 东京大学学内広报 NO.1427 (2012.7.25)
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