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资料2:女性博士の诞生

科学者を目指す女性にとっての朗报は1917(大正6)年の理化学研究所の创设であった。理研は第一次世界大戦后に西欧の模倣ではない日本独自の科学技术を育成していくという国家の施策に添って创设されたもので、物理学、化学分野の当代随一の研究者が研究室を主宰し、戦前の科学界をリ-ドした。女性が帝国大学で职を得ることなど考えられなかった时代に、几人かの女性たちは女高师や女子大などで教职につくかたわら、理研の嘱託や実験助手として自らの研究を続けたのである。

こうした向学心に燃えた女性のなかから、ようやく博士が诞生した。1927(昭和2)年にわが国初の女性博士となった保井コノは、留学先の米国で学位论文となった研究テ-マを携え、帰国后は女高师教授として勤めながら、东京帝国大学植物学教室の嘱託として研究を続けた。続いて理学博士となった黒田チカ、农学博士となった辻村みちよ、丹下ウメらは理研に研究の场を得た。また、初の薬学博士となった铃木ひでるは日本女子大学の教授をしながら、东京帝大医学部薬学科の専攻生となり、50歳にして学位を得ている。

丹下ウメは幼い顷に右目を失明するというハンディキャップを持っていたが、学问好きで日本女子大に进み、长井长义博士の薫陶を受け、女性として初の中等教员化学科検定试験に合格したうえに、黒田チカ、牧田らくとともに东北帝大に入学、初めての帝大生となった女性である。在学中に病を得て卒业は他の二人より遅れたが、その后米国に留学し、栄养化学を学び、1927年にはジョン?ホプキンス大学から笔丑.顿を受けている。この年はまさに日本で保井コノがわが国初の博士号を取得した年にあたる。丹下は9年间の滞米生活の后帰国し、日本女子大で教鞭を执るかたわら、理研でビタミンの研究を続け、67歳にして农学博士号を取っている。

わが国で初の农学博士となった辻村みちよは东京女高师を卒业后、7年间教职についた后、长年の梦であった研究者への道に入った。まず、北海道大学农学部农芸化学科の无休副手、东大医学部医化学教室を経て、理研研究生として铃木梅太郎博士のもとで緑茶の成分の化学的研究を行った。のちにお茶の水女子大学教授となったが、その研究者としての道のりは平坦なものではなかったようだ。

铃木ひでるは、教职につくかたわら、わずかの机会を捕らえて研究への梦を実现していった。丹下ウメと同じ日本女子大出身、やはり长井长义博士の弟子で、母校の化学科教授であった。彼女は大学卒业后も化学担当の助手として残り、学生の実験指导から大学の雑务までを忙しくこなしながら、独学で薬剤师试験に合格、ついに长井の推荐を得て东大医学部薬学科の専科生として近藤平叁郎教授の指导を受ける机会を得た。东大薬化学教室での実験は厳しいもので、男性でも音を上げるような仕事も黙々とこなしたという。化粧気のない颜、木绵の着物に无造作な头をそそけさせた彼女についた浑名が「石炭女史」だった。専科生の期间を终えたあとも、目白の女子大と东大とを往復しながら研究を続け、女性で初の薬学博士となった。



草创期の日本の女性科学者の研究テ-マをみると、女性博士第1号(植物学)の保井コノは植物の成分および遗伝学的研究を研究し、化学専攻での女性初の博士黒田チカは红花(ベニバナ)および紫根(シコン)成分の构造研究をし、女性初の农学博士辻村みちよは日光特产のカラコギカエデの化学的分析を初めて试みるなど、植物の色素および食品成分の研究をしていた场合が多い。日本女性科学者は、女性の労働に依存することの多かったこのような染织や食品などの生活必需品である家政科的问题から研究を歩み始めたといえる。この点でマリ-?キュリ-などの原子物理学者と背景を异にする。マリ-?キュリ-の场合は祖国ポ-ランドからパリに出てアインシュタイン等の世界の科学者に遭遇し、1898年ボロニウム元素を発见した。

女性研究者について记した最も古いと思われる1937(昭和12)年に出版された长岛譲着『女博士列伝』では、昭和12年4月20日までに学位を取得した21人の女性の経歴を绍介している。この时点で日本の博士は文系も含めて12,356人(8割程が医学博士)いたが、女性はこの书でとりあげられた21人のみで、文系博士はゼロである。长岛は中国人の1人を除いた20人について、次のようにコメントしている。

1)学位と年齢:

20人の内訳をみると、医学博士が14人で学位取得年齢は平均39歳、理学博士が3人で44歳、农学博士が2人で45歳、薬学博士が1名で50歳である。医学が一番ストレートに学问に入れるので学位取得は比较的早いが、理?农?薬は研究生活に入るまでに长い準备期间を送らねばならなかった。

2)结婚と学位:

20人中14人が独身である。既婚の6人中2人は学位をとるまで独身であったので、结婚しながら勉强を続けたのは4人だけである。现在は独身でなければ勉强を続けられないといってもよい。ごくまれに、恵まれた人だけが可能といえる。

3)学问と结婚:

既婚妇人6人中4人までが夫妻とも博士で、ともに医学者であり、いわゆる共稼ぎに便宜とする専门といえる。既婚妇人でも学问できる家庭生活が生れ、男が学问した妇人を&濒诲辩耻辞;嫌う&谤诲辩耻辞;感情を失うに至る时代が理想である。

4)学校の経歴:

女子师范から女子高等师范に进んだものが4人、同じく女子医専に进んだものが2人、女学校から女高师に1人、女子医専に9人、(私立の)女子大に一人、中等教育を受けずに女子医専、女医学校、済生学舎に进んだものが各1人となっている。女子师范出身の6人中5人は、理学、农学であり、职业妇人を养成することを意味し、最初から独立性が约束されており、学问への道を选択する可能性が多いといえる。それに対して女学校は花嫁学校的である。

5)留学:

20人中7人が留学している。海外の方が妇人が勉强しやすいと考えられる。

以上、わずか20人の事例であるが、これらの点には今日にもあてはまる事柄が多く、女性科学者が抱える问题は普遍的であると痛感する。特に、物理、化学、生物学などの基础分野では女性は补助的な仕事にまわされ、长い期间下积みに甘んじなければならなかった场合が少なくない。そういう环境の中で地道に粘り强く研究を続け、独自の成果を世に问うてきた彼女らを突き动かしたものは、科学の面白さ、科学することの喜びを知ったことではないだろうか。